背景と適用シナリオ
現代のビジネス環境において、企業は過去のデータを分析するだけでなく、未来を予測し、プロアクティブ(能動的)に行動することが求められています。営業チームは「どの商談が最も成約しやすいか」、サービスチームは「どのケースがエスカレーションするリスクが高いか」、マーケティングチームは「どのお客様が解約しそうか」といった問いに、データに基づいた答えを求めています。従来、このような予測モデルの構築は、データサイエンティストのような専門家と、多くのコーディング、そして高価なツールが必要な領域でした。
しかし、Salesforce はこの常識を覆しました。Einstein Prediction Builder (アインシュタイン予測ビルダー) は、Salesforce 管理者がクリック操作だけで、カスタムオブジェクトを含むあらゆる Salesforce オブジェクトに対して、AI を活用した予測モデルを構築できる強力なツールです。プログラミングの知識は一切不要で、使い慣れた Salesforce の設定画面から、ビジネスに特化した予測を迅速に展開できます。
このツールの登場により、Salesforce 管理者は単なるシステムの維持管理者から、データを活用してビジネス価値を創出する戦略的パートナーへと役割を昇華させることができます。具体的な適用シナリオは多岐にわたります。
営業部門
商談の成約予測: 標準の商談スコアリングだけでなく、自社のビジネスに特有の項目(例:特定の製品ライン、競合の有無、過去の活動履歴など)を考慮した、より精度の高い成約確率を予測します。スコアが高い商談に営業担当者が集中することで、成約率の向上が期待できます。
サービス部門
ケースのエスカレーション予測: ケースの件名、説明、発生源、関連製品などの情報から、顧客満足度の低下に直結するエスカレーションの可能性を予測します。リスクが高いと予測されたケースは、早期に経験豊富な担当者へ割り当てるなどの対策が可能になります。
財務・経理部門
請求の支払い遅延予測: 取引先の支払い履歴、契約期間、請求額などのデータから、どの請求が期日通りに支払われない可能性が高いかを予測します。これにより、経理部門は事前にフォローアップを行い、キャッシュフローを安定させることができます。
マーケティング・リテンション部門
顧客の解約(チャーン)予測: 顧客の利用状況、サポートへの問い合わせ頻度、契約更新日までの期間などから、解約リスクを予測します。リスクの高い顧客に対しては、特別なキャンペーンやサポートを提供し、顧客維持率を高める施策を打つことができます。
原理の説明
Einstein Prediction Builder の中核をなすのは、Supervised Learning (教師あり学習) と呼ばれる機械学習の手法です。これは、過去に「答えがわかっている」データ(例:「成約した」商談と「失注した」商談)を AI に学習させ、その中から成功や失敗につながるパターンを見つけ出させるというものです。
管理者が予測モデルを構築するプロセスは、直感的なウィザード形式で進められます。以下にその主要なステップを解説します。
- 予測の定義 (Define Prediction):
最初に、何を予測したいのかを定義します。「はい/いいえ」で答えられる二者択一の質問(例:この商談は成約するか?)であれば Binary Classification (二項分類) を選択します。特定の数値を予測したい場合(例:この商談の成約金額はいくらか?)は Regression (回帰) を選択します。多くのビジネスシナリオでは二項分類が利用されます。
- オブジェクトの選択 (Select Object):
予測の対象となるデータが格納されている Salesforce オブジェクトを選択します。商談、ケース、取引先などの標準オブジェクトはもちろん、自社で作成したカスタムオブジェクトも選択可能です。
- セグメントの定義 (Define Segment - Optional):
必要に応じて、予測の対象とするレコードを絞り込むことができます。例えば、商談オブジェクト全体ではなく、「年間契約の商談のみ」や「特定の地域におけるケースのみ」といった条件でセグメントを定義することで、より特化した予測モデルを構築できます。
- 予測する項目と例題セットの定義 (Define Field to Predict & Example Set):
AI の「教師」となる過去のデータを定義します。二項分類の場合、過去のレコードが「はい(ポジティブな結果)」だったのか、「いいえ(ネガティブな結果)」だったのかを示す項目を選択します。例えば、商談の成約予測であれば、「フェーズ」項目が「Closed Won」のレコードをポジティブな例、「Closed Lost」のレコードをネガティブな例として定義します。
- 予測因子の選択 (Select Predictor Fields):
予測に影響を与えそうな項目(予測因子)を選択します。例えば、商談の成約予測であれば、「金額」「リードソース」「取引先業種」「過去の活動数」などが考えられます。ここで全ての項目を選択することも可能で、Einstein が自動的にどの項目が予測に最も寄与するかを分析してくれます。
- 構築とレビュー (Build and Review):
設定が完了すると、Einstein がバックグラウンドでデータの分析とモデルの構築を開始します。完了後、Scorecard (スコアカード) と呼ばれる評価レポートが生成されます。スコアカードでは、「予測の品質」が全体的なスコアで示されるほか、「どの予測因子が最も影響を与えたか」といった詳細なインサイトを確認できます。これにより、管理者はモデルの信頼性を客観的に評価できます。
- 有効化 (Enable):
スコアカードの内容に問題がなければ、予測を有効化します。有効化すると、対象オブジェクトに新しいカスタム項目が自動で作成されます。この項目には、各レコードに対する予測スコア(0から100の数値)が格納されます。例えば、「成約の可能性」が85点、といった具体的な数値です。このスコアをレポート、リストビュー、Lightning ページレイアウトなどで活用することで、予測を実際の業務プロセスに組み込むことができます。
データ準備の例
Einstein Prediction Builder の予測精度は、学習に使用するデータの品質に大きく依存します。「Garbage In, Garbage Out(ゴミを入れれば、ゴミしか出てこない)」の原則は AI の世界でも同様です。時には、既存の項目だけでは十分な予測因子にならず、複数の項目を組み合わせた新しい情報を作成する必要があります。これは、Salesforce 管理者にとってはおなじみの「数式項目」を活用することで実現できます。
例えば、ケースのエスカレーションを予測する際に、「ケースが作成されてからどれくらいの時間が経過しているか」は非常に重要な予測因子になり得ます。この「ケースの経過日数」という情報は、標準項目には存在しないため、数式項目として作成します。
ケース経過時間(日数)を計算する数式項目の作成
この数式項目は、ケースがクローズされていない場合に、現在日時と作成日時の差を日数で計算します。これにより、進行中のケースの「鮮度」を数値化し、AI の学習データとして提供できます。
- [設定] > [オブジェクトマネージャ] > [ケース] > [項目とリレーション] に移動し、[新規] をクリックします。
- データ型として [数式] を選択します。
- 「項目の表示ラベル」に「ケース経過日数」などを入力します。
- 「数式の戻り値のデータ型」として [数値] を選択し、「小数点の位置」を 0 に設定します。
- 数式エディタに以下のコードを貼り付けます。
/* * This formula calculates the age of a case in days. * It checks if the case is closed. If not, it calculates the difference * between the current time and the creation date. * If the case is already closed, it might be better to calculate the duration * between CreatedDate and ClosedDate, but for predicting on OPEN cases, * age from creation is a powerful predictor. */ IF( IsClosed, null, NOW() - CreatedDate )
この `Case_Age_Days__c` のような項目を予測因子に加えることで、Einstein は「作成から時間が経っているケースほどエスカレーションしやすい」といった、より深いパターンを発見できるようになり、予測モデルの精度が向上する可能性があります。
注意事項
Einstein Prediction Builder は非常に強力なツールですが、最大限に活用するためにはいくつかの注意点を理解しておく必要があります。
権限 (Permissions)
この機能を利用するには、ユーザーに適切な権限が付与されている必要があります。最も簡単な方法は、「Einstein Prediction Builder」権限セットをユーザーに割り当てることです。または、プロファイルや権限セットで「アプリケーションのカスタマイズ」および「すべてのデータの参照」といったシステム権限を有効にする必要があります。
データ要件 (Data Requirements)
精度の高いモデルを構築するには、十分な量のデータが必要です。
- 二項分類: ポジティブな結果とネガティブな結果を持つレコードが、それぞれ最低100件ずつ、合計で最低400件のクローズ済みレコードが必要です。例えば、成約予測の場合、「Closed Won」が100件以上、「Closed Lost」が100件以上必要です。
- 回帰: 最低400件のレコードが必要です。
- 推奨量: Salesforce では、より安定した精度の高いモデルを構築するために、10,000件以上のレコードを推奨しています。データは多ければ多いほど、AI はより多くのパターンを学習できます。
制限事項 (Limitations)
ご契約の Salesforce Edition によって、作成・有効化できる予測モデルの数には上限があります。上限に達した場合は、使用していないモデルを無効化または削除する必要があります。また、予測スコアを格納するために作成されるカスタム項目は、オブジェクトごとのカスタム項目数の上限にカウントされる点にも注意してください。
モデルの品質とトラブルシューティング
構築したモデルのスコアカードの品質が低い場合、いくつか見直すべき点があります。
- データが不足している: 最低要件を満たしていても、データ量が少ないと品質は上がりにくいです。より多くの履歴データをインポートすることを検討してください。
- 予測因子が不適切: 選択した項目群に、結果と相関関係のあるものが含まれていない可能性があります。前述の数式項目のように、ビジネスをよく理解した上で、より意味のある予測因子を作成・追加してみてください。逆に、ノイズとなるような無関係な項目は除外することも有効です。
- データ品質の問題: データに欠損値(空の項目)が多かったり、入力ミスが多かったりすると、モデルの品質は低下します。予測モデルを構築する前に、データクレンジングを行うことが重要です。
まとめとベストプラクティス
Einstein Prediction Builder は、Salesforce 管理者が AI の力を手軽に活用し、ビジネスの意思決定をデータ駆動型に変革するための画期的なツールです。もはや AI は遠い未来の技術ではなく、日々の業務改善に直接貢献する実践的なソリューションとなりました。
このツールを最大限に活用するためのベストプラクティスを以下にまとめます。
- 明確なビジネス課題から始める:
「AIを使いたい」という技術的な動機ではなく、「商談の失注率を下げたい」「顧客満足度を向上させたい」といった具体的なビジネス上の課題からスタートすることが成功の鍵です。解決したい課題が明確であれば、何を予測すべきか、どのデータが必要かも自ずと明らかになります。
- データが王様 (Data is King):
モデルの品質はデータの品質と量に直結します。日頃から正確でクリーンなデータを Salesforce に蓄積する運用を徹底することが、将来的に大きな価値を生み出します。
- 反復的なアプローチを取る:
最初のバージョンで完璧なモデルができることは稀です。まずはスモールスタートで最初のモデルを構築し、スコアカードを確認し、予測因子を見直したり、新しい数式項目を追加したりして、継続的にモデルを改善していくことが重要です。
- 予測をアクションに繋げる:
予測スコアを表示するだけでは不十分です。そのスコアをトリガーとして、具体的なアクションを自動化しましょう。例えば、Flow を使って「解約リスクが80以上の顧客にフォローアップタスクを自動作成する」、「成約可能性が90以上の商談をマネージャーに通知する」といったプロセスを組むことで、予測の価値を最大化できます。
- パフォーマンスを監視する:
ビジネス環境や市場は常に変化します。一度構築したモデルが未来永劫有効とは限りません。定期的にスコアカードを見直し、予測の精度が落ちてきていないかを確認し、必要に応じて新しいデータでモデルを再構築することが推奨されます。
Einstein Prediction Builder を使いこなすことで、Salesforce 管理者は組織のデータ活用の中心的存在となり、ビジネスの成長に直接的に貢献することができるでしょう。
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